学院長
駒﨑達也|Tatsuya Komazaki
学院長の歩み
「“ゼロから”の挑戦」
── 先生、まずはご自身のご経歴からお聞かせいただけますか?
はい、私は幼少期から自閉スペクトラム症(ASD)と注意欠陥多動性障害(ADHD)を併発していて、ずっと対人コミュニケーションに困難を感じて生きてきました。
保育園に通い出した頃にはすでに「自分は周りと何かが違う」と強く感じていて、その感覚は小学校に入ってからも続きました。授業中に落ち着いて座っていられず、何度も学校を飛び出してしまう——そんな“問題児”として、当時は地元で知られる存在でしたね。
── そんな中でも、ご自身が安心できた時間や場所はあったのでしょうか?
ありました。学校や近所の図書館です。
そこでは、私はいつも語学書のコーナーに引き寄せられていて。見たこともない言語や文字に触れるたびに、胸が高鳴ったんです。何も言わなくていい、誰とも比べなくていい。あの静かな場所で、私は初めて“世界とつながっている感覚”を持てたのかもしれません。
── それが、語学や教育の道へ進む原点だったのですね。
そうです。中学校で奥村きよみ先生という素晴らしい英語の先生に出会って、さらに拍車がかかりました。彼女の授業は、ただの暗記ではなくて、「ことばが生きている」ことを教えてくれたんです。
その後、中学2年の時にアメリカ派遣の代表生徒に選ばれ、海外で多様な人々と交流する経験をしました。
まさに、図書館で触れていた“外国語の世界”が、現実の人々の営みとして立ち上がってきた瞬間でした。
── そこから、海外留学にも挑戦されたと伺っています。
はい。高校・大学ではオーストラリアやイギリスにも留学し、ケンブリッジ大学では英語史に出会って——言葉って単なる道具ではなく、人間の歴史や感情、文化が織り込まれた“営み”なんだと気づかされました。
とはいえ、自分の特性からくる困難は続きました。浪人、留年、退学、そして引きこもり……。人よりかなり回り道をしてきた人生だったと思います。
── そんなご自身の転機になった出来事は?
2011年の東日本大震災ですね。
「ああ、自分はまだ生きているんだ」と感じた瞬間に、「じゃあ、生かされている意味をどう使うか?」を本気で考え始めました。
それで、日本語教師を志し、半年後には中国・上海に渡りました。
片道切符で、家も仕事も知り合いもビザも保険もない。中国語もまったくできない。いま思えば、なかなかの無謀ですよね(笑)
── 本当に“ゼロから”の挑戦だったんですね。
まさにその通りです。
最初は、カフェで日本語を勉強している学生に声をかけてレッスンしたり、小さなスクールに登録して経験を積んだり……完全に体当たりでした。
でも1年後には東華大学という国立の名門校で非常勤講師として最年少で教えるようになり、29歳で華東政法大学の特任教授に。日本語通訳と中国語通訳を教える唯一の日本人として、テレビ出演や日本領事館に招かれる機会も得られました。
── そこから東京外語学院を立ち上げるまでには、どんなストーリーがあったのでしょうか?
中国でのキャリアが順調だった矢先に、コロナ禍で帰国せざるを得なくなり、再び職を失いました。
でも、その時すでに中国語も習得できていたので、国内の大学や大学院で日本語・外国語教育の職を得ることができました。今は上智大学でも教えています。
そして、長年の経験と、ASDやADHDといった自分の特性に寄り添う学びのスタイルを模索していく中で、「自分の理想とする外国語教育を実現する場を持ちたい」と考えるようになったんです。
それが、東京外語学院の原点です。
── 東京外語学院が大切にしていることは何ですか?
ひとことで言えば、“言葉は命をつなぐもの”だということです。
語学はただのコミュニケーションツールじゃありません。
人生を変え、人とつながり、自分自身を深く見つめるための“魂の伴侶”だと、私は信じています。
だから私たちは、一人ひとりの個性・背景・困難に寄り添うことを何より大切にしています。
画一的なコースではなく、個々の生徒の「本気」を、講師が全力で受け止める。それが、東京外語学院の哲学です。
── 最後に、これから外国語を学ぼうとしている方にメッセージを。
人生は、予想外のことの連続です。
私自身が、何度も挫折して、逃げて、回り道をしてきました。でも、いつも“ことば”がを導いてくれました。
もし、今の自分に納得がいっていないのなら。
もし、どこかで心の底から「変わりたい」と思っているのなら。
あなたが歩む次のステージには、外国語が力強い翼になります。
東京外語学院で、私たちと一緒に、その一歩を踏み出してみませんか?